TV朝日のサンデープロジェクトに触発されて考えたこと。
(少し前から頭の中にあったことではある。)
日本のいわゆる保守派の人々の意見を聞くたびに思う反発をうまくあらわす言葉が見つかった。
「過保護」だ。
彼らは日本らしさや、美意識や、倫理観などというが、結局文化の過保護でしかない。
僕が香港で見たこと-それは、激しい文化の相克だ。東洋と西洋の間の相克である。
その中で観察できるのは、「強い」文化は生き残るということだ。イギリスに植民地化された地域であるにも関わらず、しかも彼らのほとんどが戦前・戦後の移住民であるにもかかわらず、香港の人々は、たくましく自分たちの中華的文化を保存している。しかも、たくましく西洋とのやり取りにも適応している。
それに対して、日本はどうか。
ちょっとした刺激で、ビリビリと反応し、日本らしさを守らなくては、とカリカリする。
僕に言わせれば、日本らしさというものが、本当に強いものであるならば、長い歴史の中では生き残ることができる。しかしながら、もしそれが世界的に受け入れられない偏狭なものならば、淘汰される。
なぜ保守派の人たちは、あれほどまでに、文化のたくましさ(resilience)を信じようとしないのであろう。他の文化の影響にさらすということに、自信がないのであろう?
思うに彼らが擁護している文化や、倫理や、いわゆる「らしさ」の大半が、偏狭さを前提にしたものだからだろう。つまり、日本の単一民族性を前提にしているのだ。だからこそ、こうした文脈で文化のよさが論じられる場合、その裏返しとして必ず、偏狭さが問題となる。徳川時代に育てられた倫理観は、多くの場合こうした偏狭さを前提としているのではないか。偏狭さは、まず、現代の時代にそぐわない。そしてそれ以上に、偏狭さはそのものが倫理的に悪ではないのか?
だから日本人らしさを擁護している時にいつも感じるのは、「日本人」に属さない人はどうなるのか?という点である。地域社会が善だという。しかし、日本らしさに必ずついて回る欠陥として、身内には優しいが「ウチ」に属さないものへの疎外、いじめ、劣等感もしくは優越感など、陰湿な気質が明らかに存在している。日本らしさを擁護すればするほど、こんな特質は、淘汰されることがなく、いつまでも外に閉鎖的な社会となってしまう。
だから、「過保護」をやめて、一旦外の混沌とした世界に自分たちの倫理観をさらし、強いものだけを残す、という態度があったっていい。
中国人が、物理的にも倫理的にも故郷を離れてたくましく文化を保存しているようなことが、できないのはなぜだろうか?そして、あのような論客がTVを通して、過保護を助長しようと躍起になること自体が、私の中では違和感を引き立てる。自然に任せ、強さを大いに試すという思想は、起こらないのだろうか?
Sunday, 22 February 2009
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment